「やりたいこと」が見つからなくてもいいじゃないか。と思った話

少し前に、イチロー松井秀喜のバットを作る久保田五十一という方の特集をテレビで見た。5分ほどの短い番組だったのだが、そのなかで語られていて印象的だったのが「イチローはバットに合わせて体を変える、松井は調子やスイングに合わせてバットを変える」という趣旨の発言。

久保田さん曰く、

  • イチローは「理想のスイング、フォーム」のイメージが固まっており、それを実現できるのは今のバットだけ。そのバットを理想どおりに振り続けられるよう、トレーニングするのみ
  • 松井秀喜は「理想のスイング、フォーム」を常に模索しており、その都度その都度の理想に合わせ、常にバットを変え続ける

とのこと。

ここで、自分はどうなんだろうと考えてみる。すると、「そもそも自分にとっての理想ってなんだ?」ってことに行き着く。自分には、人生を賭けて取り組んでいることが今のところ思い当たらないので、まずはそれを探せってことか!?う〜ん、なんだか哲学めいてきた。

身近なところで考えてみると、自分の父の理想は仕事(溶接技術の研究)でそれ一筋。その仕事をずっと続けられるよう今でも努力している。これはイチロータイプ。一方、母はそのときそのときの状況に合わせて理想(≒興味の矛先?)を変えており、最近だと50歳を過ぎてから大学院に入学して「日系移民」の研究をしている*1。これは松井タイプかな。

ここまで書いて、「自分は松井タイプ(理想模索型)かも」と思えてきた。一つのことが長続きせず、次から次へと興味の矛先が変わっていく(最近だと、山登り、自転車、ダイビング、一眼レフあたり)この性分は極めて一般的だし、別にどれか一つにのめり込む必要もないってことに気づく。

「やりたいことが見つからない」なんてことを言っていると、(少なくとも)自分の人生は楽しくなくなる。もっと柔軟に、緩い感じで暮らしていったっていいじゃない。その結果、満足のいかない日々であったとしても、それは自分の選択が招いた結果。甘んじて受けて当然。けど、それだとちょっと救いがないので、自分のアンテナだけは常に高いところに張っておく*2

書き留めると考えが纏まる。これ真なり。自分のなかでは考えが纏まったように思えたので、書き散らした駄文だけど書き留めておく。*3

*1:なんと突拍子のない

*2:最近はtwitterがアンテナ代わり

*3:冒頭の引用、結論とあんまり関係ない??